2012年3月19日月曜日

ホイットニー・ヒューストンが拓いた道

ホイットニー・ヒューストンが亡くなってもう一ヶ月余りが経つ。死亡のニュースが流れた際にはfacebookでyoutubeの動画をアップする人も多かったが、とても見る気にはなれなかった。当初は自殺ではないかとの報道もあったが、育ての親であるアリスタ・レコードのクライヴ・デイヴィスのパーティーに参加するためにホテルにいたのだから、恩人の前で自殺するはずがない。クライヴ・デイヴィスは高齢だと思うが、娘みたいなホイットニーが死んでかなりのショックだと思う。

いまでは想像も出来ないけれど、80年代にホイットニー・ヒューストンが果たした公民権運動は非常に大きいものがあった。クライヴ・デイヴィスはホイットニーをデビューさせるときに、白人のラジオ局にも売りまくった。マイケル・ジャクソンが黒人としてはじめてMTVに出演出来た頃である。彼女はひたすら売れるためにゴスペルから離れて白人のように歌い、ついには1989年のソウルトレインで大ブーイングを受けてしまう。

その後90年代の彼女はアトランタのLAフェイスが甘い楽曲を提供しまくり、レコードは売れに売れるのだが、自分の音楽ルーツからどんどん離れてしまい、それがドラッグへと繋がったのかも知れない。ここら辺は、デビューからの清楚なイメージから脱却できず、兄のリチャードを離れてフィル・スペクターにすがり、最後は拒食症で亡くなったカレン・カーペンターと似たものがあると思う。

「ボディーガード」は一人映画館で観た記憶がある。当時のホイットニーは「ツイットニー(生意気)」と呼ばれていて、共演した歌手をいじめることで有名だった。ケビン・コスナーも撮影のあとで彼女の悪口を言っていたから、相当ひどい状態だったのだろう。そんな前提知識でみた彼女の映画はつまらなかった。でも今でもたまにホイットニー・ヒューストンのCDは聴いている。何曲か続けて聴くと、たまに1曲びっくりするくらい素晴らしい彼女の声に触れることができて、全身の筋肉が弛緩するのだ。もちろん涙腺も。